5.美茂呂町の歴史

 

 

 1.水神宮祭の由来


 

 広瀬川は古くは比利根川と言われ何回となく氾濫を繰り返してきました。文化10年(1813年)には未曽有の大洪水をおこし、当時伊勢崎地方に2ヶ所しかなかった1つの茂呂大橋も流され、家や田畑の被害も甚大で住民は大いに困りました。この大洪水の恐ろしさの残る文化13年(1816年)に広瀬川で溺れ死んだり、川で怪我死する者が数多くでました。先の大洪水もあり、村人が相談して「洪水や水難を避け、合わせて干ばつ時の雨の恵みを祈る」ために、水神宮の石宮を光円の地に建立して、その年(文化13年)の628日に茂呂村全体で水神宮祭りを行ったのが祭りの始まりです。

 

 古文書に「文化13年茂呂村中で始められ、嘉永3年(1850年)に又水神宮祭これより村中にて祭り、油代を三組に出す」と書かれている。その36年間の大部分は当時の美茂呂町地域の人が中心で水神宮祭を執り行ってきたようです。

 嘉永3年から7年(1854年)にかけて茂呂の屋台が4台建造されている。美茂呂町の屋台は嘉永7年に作られているので、この年から水神宮祭に屋台が参加するようになりました。明治になり一時村中の屋台全部を祭りに揃えようとしたが、当時の道路事情、経費、労力の面で無理と分かり2年ほどで屋台全部を祭りに揃えることは中止となりました。

  

 その後、明治の初めから大正、昭和の戦後間もない頃までは、若者がそれぞれ趣向をこらした浮かし灯篭を造り川の流れのなかに浮かべ、表面に絵や文字を書き、中に水流を利用して回転するものをつけて、ロウソクの灯りで走馬灯のように見せて奉納しました。

さらに、明治の末、日露戦争で出兵した兵士が船で海を渡った時に、船の照明が海面に映えて美しかったのが印象に残り、帰還後にそれを再現しようと川の向こう岸からこちらに針金を渡し、それに灯油と灯心をキュウスに入れたものを幾つも吊るし、火をつけカンテラ式に川面近くにかざしたら、灯りが川面に映り美しく人々の目を楽しませたこともありました。

 

 灯篭流しの起源については明らかではありませんが、伊勢崎で織物が盛んになり、機屋と言われる織元の一軒で児島佐吉氏が、商売で関西に出かけた時に精霊流しを見てきて、美しいものであり幻想的でもあることから、「水神宮祭の時に広瀬川に灯篭を流してみてはどうか」との話から、祭典委員会で「それは良い、やってみよう」と決まり、灯篭流しが始まったとも言われています。「流し灯篭」の作り方は、最初は麦藁を十字にしばりロウソクをつけたものだったらしいが、作り方も時代と共に変化し、現在では紙皿を利用して中心に楊枝をさし、ロウソクを立てて作っています。

 

 花火については、大正、昭和の初期から731日の水神宮前夜祭に花火の打ち上げはあったが、毎年決まったものではありませんでした。戦後、昭和30年頃になると日本経済が高度成長期に入り、地元住民の間で「水神宮祭で花火を打ち上げたい」との機運が熟し、昭和31年頃から祭典委員が地元住民及び近隣の企業商店から寄付を募り、水神宮祭の奉納花火大会がスタートしました。記録では昭和34年に、初めて仕掛花火(ナイアガラ)を行ったとの記述があることから、スタートから数年間で大掛かりな花火大会へと発展したものと思われます。奉納花火大会は平成2526年の中断をはさみ、平成28年まで続きました。

 

現在、奉納花火大会は住宅事情の関係で廃止となりましたが、水神宮祭は8月第3土曜、日曜日に変更し、祭典委員が中心となり当初の「洪水や水難を避け、合わせて干ばつ時の雨の恵みの祈り」と、祭壇の飾りつけ、灯篭流し、屋台囃子、各種イベント、子ども神輿は継続して行っております。文化13年(1816年)以来、祭りに関する形式はその時々により変遷を繰り返してきたが、今年まで200余年間、絶えることなく水神宮祭は続けられて来ました。

明治時代に描かれた水神宮と光円橋の版画

    「水神宮祭の由来」は石原義司氏の「水神祭の由来と変遷」を基に、私が加筆しました。(丸橋正幸)

 

 

 2.退魔寺の由来


        水神宮祭

 

         退魔寺本堂


◆退魔寺の歴史

  石岡山不動院退魔寺は、真言宗豊山派の寺院である。北関東三十六不動尊霊場第6番札所、東国花の寺百科ヶ寺群馬3番札所である。

    応安4年(1371年)城主茂呂勘解由左衛門尉源義輝、場内の光円坊を改め、香華院を設立。弘法大師御自作の不動明王を本尊とし、小俣鶏足寺より道照禅師を開山の師と仰ぎ、帰依したことに始まり、その後、宥秀和尚(退魔寺一世住職)の時に退魔寺と改称したと伝えられる。

 

また所伝によると石田三成当地を通過した折、当地、土橋(光円橋)附近に毎夜妖怪が現れ、庶民このために難渋するすると聞き、退治したので石田氏の徳をたたえ寺号を改め、寺紋を石田氏の紋としたとも言われている。寛文2年(1662年)火災に罹り、同10年再建、大日如来(胎蔵界)を安置、延宝5年(1678年)不動堂を再建、昭和16年再度不動堂を二十三世慶隆和尚によって再建した。

 その後の建物の改修改築は、昭和63年(1988年)本堂の屋根を全面改修、平成11年(1999年)山門改築、平成14年(2002年)不動堂改築を二十四世繁隆和尚によって行われてた。

 現在の退魔寺住職は、二十五世賢隆和尚である。

      

 ◆年中行事

  ・11日   初護摩

  128日 初不動(町内祭典委員会が灯篭を境内に設置している)

  3月彼岸  春彼岸会

  328日 春不動(町内祭典委員会が灯篭を境内に設置している)

  48日   花まつり

  813日 お盆

  8月第3土・日曜  水神宮祭(町内祭典委員会が祭りの飾りつけ・イベントを担当している)

  ・9月彼岸   秋彼岸

  1010日  施餓鬼

  1231日  除夜の鐘供養

  

 

 3.飯福神社の由来 


  

 ◆飯福神社の歴史

    飯福神社の創建年代は明らかでないが、伝承によれば、建武年間(1334~36年)に宗良(むねなが)親王が父君後醍醐天皇の命を受け征東将軍となって東国に赴いたが、御子の尹良(ただなが)親王薨去(こうきょ)後は新田一族を率いて王事を尽くしていた。その宗良・尹良両親王の御息所にちなんで、ここに「位々登美(いいとみ)」の御神霊を奉祀した事が始まりとされている。その後は那波氏によって再建されたが、正親町(おおぎまち)天皇の御代の永禄五年(1562年)、北条氏の兵乱に遭って社殿は悉く破損した。しかし、由良氏によって修理がなされ、天正年間(1573~92年)には、竹姫公の采邑(さいゆう)となった。

 

 江戸時代に至ると、伊勢崎城主酒井日向守忠能によって修理が加えられ、明治維新以来は氏子の経営するところとなった。

   明治7年、村社に列せられ、明治40年9月17日、境内末社の愛宕神社・秋葉神社・菅原神社、字堤の飯福神社・同境内末社の琴平神社・八幡神社、及び字宮上の秋葉神社、字白山の白山神社・同境内末社の菅原神社・疱瘡(ほうそう)社を合祀して今に至っている。

 境内には、大正14年建立の「古銭発見碑」があり、以前は桜の名所でもあった境内地を氏子たちは「カミノヤマ」(上之山)と称している。

  平成25年に篤志家の浄財投入を得て、老朽化した社殿の改築が行われた。

 現在、宮司を岩崎輝夫氏が務めている。

  

◆祭神                                  

  【主祭神】

  保食神  (うけもちのみこと)

 【配祀神】

  大物主命 (おおものぬしのみこと)

  誉田別命 (ほんだわけのみこと)

  火産霊命 (ほむすびのみこと)

  倉稲魂命 (うがのみたまのみこと)

  菅原道真命(すがわらみちざねのみこと)

  菊理媛命 (くくりひめのみこと)

  最上命   (もがみのみこと)

◆ご利益                                 

   開運(「いい福」を授ける)・五穀豊穣

  

 ◆年中行事             (出席者)

 ・1月1日    歳旦祭  4町内区長、神社総代、県会議員、市会議員

 ・2月23日    春季例祭  4町内区長、神社総代

 ・4月       総会  神社総代

 ・7月31日   夏越之祇い  神社総代、有志

 ・9月第2日曜日   秋祭り  4町内区長、屋台囃子保存会、子供育成会、神社総代、有志

 ・1017日      神嘗祭  4町内区長、祭典委員長、神社総代

 ・1123日      新嘗祭  4町内区長、神社総代

 ・12月中旬 神社大麻歴の頒布、神社札の配布  4町内祭典委員

 ・1231日     初詣準備  神社総代

 

 明治時代に描かれた飯福神社の版画

 

 

 4.茂呂小学校150年の歴史

              建替前のの木造校舎と講堂

    現在の茂呂小学校校舎

 

   教民要旨の碑(茂呂小学校 校庭)

      伊勢崎市指定文化財


(江戸時代)

1811年 文化8年:伊勢崎藩(2万石)の郷学(ごうがく)遜親堂(そんしんどう)として茂呂村に開

         校。

1814年 文化11年:遜親堂 教民要旨の碑を建立(茂呂小学校 校庭、伊勢崎市指定文化財)。

 

(明治~大正~昭和~令和時代)

1872年 明治5年:1115日 第17中学区98番小学校「茂泉小学校」(茂呂村と今泉村1字を取

         って命名)今泉村 法長寺に仮開設。

1873年 明治6年:中屋敷の鈴木伊平氏の宅地を借用して学校を建設。

1874年 明治7年:宿組の演技場を修理し、今泉、茂呂の両村小学校を法長寺より移転。校名を

             「広瀬川小学校」と改称し3月に開校。

   今泉村は別に八坂神社前に「今泉小学校」を設立。

1875年 明治8年:遜親堂を改修して増築校舎となし、演技場より移転する。

1885年 明治18年:「佐位第5小学校第1分校」として開校(粕川小学校の分校)

1886年 明治19年:校名を「佐位第8尋常小学校」となる。義務教育が4年

1887年 明治20年:「茂呂尋常小学校」と改称する。

1801年 明治35年:高等科併設「茂呂尋常高等小学校」となる(尋常:4年間、高等:4年間)

1907年 明治40年:義務教育が6年になる。

1908年 明治41年:校舎敷地、現在位置に移転する。

1919年 大正8年:火災で2階建校舎を焼失する。

1920年 大正9年:2階建校舎2棟を落成する。

1940年 昭和15年:殖蓮と共に合併し伊勢崎市となり「伊勢崎市立茂呂尋常高等小学校」とな

         る。

1941年 昭和16年:国民学校令の公布により「伊勢崎市立茂呂国民学校」となる。

                 義務教育8年制実施。

1947年 昭和22年:学制改革により「伊勢崎市立茂呂小学校」となる。

 

2023年 令和5年:1111() 茂呂小学校創立150周年事業実施。 

 

          ≪ 教民要旨の碑 ≫

      伊勢崎市指定重要文化財

                  昭和41年4月12日 指定

教民要旨の碑はもと伊勢崎藩の郷学の一つである遜親堂に建てられていたもので、題字には遜親堂碑とあります。

 教民要旨は文化8年(1811)に、藩の年寄(家老)関重嶷と磯田邦光の2人によってつくられた文章で、同年に遜親堂、安堀の会輔堂、下植木の正誼堂にそれぞれ下賜されたものです。碑はこれを刻んだもので、文末に「上野国佐位郡茂呂村庶民建」とあるように、文化11年に村民によって建てられたものです。教民要旨の本文は現在でも写本などとして伝わっていますが、遜親堂のほかには建碑の例がなく、村民の向学に対する情熱がうかがえる教育史上としても貴重な資料です。

                                              昭和631210

 

                                                         伊勢崎市教育委員会